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コレスポンデンス

医学教育コア・カリキュラムについて
帝京大・医・薬理 中木敏夫
nakaki@med.teikyo‐u.ac.jp  

 中谷先生が3月号の本欄で言及されたことの中で,薬理学の基本を体系的に学ぶという点を指摘された.この点について私の解釈を述べたい.体系的(systematic)とは複数の事柄の間に密接な関連があり,全体として纏まった働きができるしくみを表す概念である.

体系的事項に属するものは順序が大切である.正しい順序を無視した場合には全体がうまく機能しない.パソコンの例を挙げるまでもないが,ワードやエクセルが立ち上がる前にシステムを動かすソフトが機能していることが必要である.このような意味で,薬理学の内容のすべてが体系的になっているかというと必ずしもそうではない.

内外の薬理学の教科書を眺めると,共通した事柄がある.薬物動態論,薬力学総論,情報伝達総論,生理活性物質総論,自律神経総論,循環器疾患治療薬総論,中枢神経系疾患治療薬総論は必ず教科書の前の方に記載されている.これに対して,消化器,内分泌,腎,血液,感染,高脂血症・痛風,炎症,呼吸器,腫瘍治療薬等はその後に記載され,しかもこれらの中の順序はまちまちである.

もし,薬理学に体系があるとすれば,教科書の前の方に記載されている事項が相当すると考えられる.したがって,これらの事項についてはあらゆる薬の講義に先立って講義されるべきである.これを私は総論(つまり薬理学を動かすシステム)と呼びたい.さらに,周産期薬物治療,高齢者薬物療法,薬物併用,薬物中毒,薬物アレルギー,遺伝薬理学をも総論に含めたい.総論であっても,代表的な薬(プロトタイプの薬や現在よく使われている薬)の具体名をあげることが重要である.

その数はおよそ100‐150程度であると思う.このような条件の下で,各疾患を学習した後で各臨床科目(内科のみではない)の講義課程に近い時期に,あるいはその課程の中に各論を組み入れて講義する事は良いと思う.この場合でも,薬理学講座の教員が講義をするのがよいと思う.総論を修了したならば,各論を講義することについて順序を入れ替えても体系上の問題が生じるとは思えない.問題があるとすれば,カリキュラムを組む上での実際上の問題である.臨床科目の中に組み込むわけであるから,カリキュラム作成がきわめて複雑になることである.しかし,これは学生の学習効率の問題でなく,教員側の問題である.  

小生は米国の3校のプログラムについて聞いたことがある.米国中部の州立大学では,総論を30時間ほど行い,その後各論を臓器別に行っている.各論は,生理学,病理学,薬理学を臨床科目と組み合わせて行っている.したがって,我が国で今まさに議論されているシステムに近い.おそらくコアカリキュラム案もこのような例を念頭に置いていると推定する.このカリキュラムの実施上の問題点は,学習効率が悪いと言うことではなく,誰がこれらの基礎科目を講義するかについて講義時間の縄張り争いが起こることである.

その理由は,この大学の医学部長が各Departmentを評価する項目は2つあり,1つはオーバーヘッドが多くとれるNIHからの研究費取得額であり,もう一つは講義数だからである.担当教員を決める会議は毎年紛糾するという.米国ではDepartmentの評価は教員数やスペースに直ちに反映されるので重大問題であり,その厳しさが想像できる.また,臨床の教員が必ずしも薬理学に精通しているわけではないという懸念も,それらの講義を臨床に任せることに薬理学の教員が反対する理由となっている.東部のある州立大学では我が国で行われている伝統的方式に近い.

ただし,多くの米国の大学がそうであるように,動物や細胞を使ったいわゆる実習は行われていない.米国西海岸の比較的レベルの高い州立大学の薬理学コースは2つのコースがあり,一つは自律神経薬理と循環薬理の総論を扱い,他の一つは中枢薬理を扱う.前者のコースでは具体的な薬物名が約100種類教えられる.後者は系統講義ではなく10の症例を呈示して,学生はそれぞれの治療薬を提示し,報告書を作成するコースである.これは生涯学習を念頭に置いたものだという.

しかし,驚いたことに薬理学のコースはこれしかない.すなわち,糖尿病,胃潰瘍,気管支喘息,臓器移植等の薬ですら学生の自主学習に委ね,薬理学の教員は教えてはいない.彼らも現行制度が最善と思っているわけではなく,限られた時間と人的資源からできうる最大のことをしていると胸を張る.  この3つの州立大学に共通するのはまず総論を薬理学の教員が十分に教えるということぐらいである.

しかし,医療制度システムが我が国とはかなり異なる米国の例と比較しても意味ある教訓は得られないだけでなく,構造的な違いを無視して表面的な比較により何らかの結論を下すことは危険であると思う.重要なことは,米国の各大学が外国の模倣ではなく自らの創意工夫によって教育システムを独自に改善しているという点である.外国のきれいな部分のみを表面的に模倣する結果,システム全体としてうまく機能しないという,明治以来日本が繰り返し冒してきた愚挙だけは薬理学会として絶対に避けなければならないと思う.

これは日薬理誌117巻4号より転載したものです。  

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