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ヒトゲノムと薬物作用

三重大学医学部教授 田中利男


2000年6月23日ヒトゲノムドラフトシークエンス解析完了宣言が世界同時になされたのを受け、2091年2月15目(1),16日(2)に、国際共同研究とセレラゲノミ.クス社がその詳細をそれぞれ報告した。この報告の前にも数多<の種におけるケノ.ムシークエンスが報告されており、現在も多数の種において進行中である。

1.ヒトゲノムシークエンスと薬物療法

21世紀の冒頭にヒトゲノムドラフトシークエンスが報告されたことは、薬理学において二つの重要な意義がある。第一は、ヒトのゲノムシークエンス情報が得られ、ヒト発現遺伝子産物の分子構造や発現調節に関与するゲノム構造に直接的な解析が可能になりつつある。すなわち、ヒトを対象とする薬理学が、歴史上始めてヒトゲノムシークエンス情報を基盤に再構築される事になり、急激な研究の展開が認められる。さらに、一塩基多型(SNPs;singlenucleotide polymorphisms)を中心にした遺伝子多型解析による、薬物療法の至適化や個の医療(persona1ized medicine)の実現が期待されている。第二は、比較薬理ゲノミクスの誕生である。従来より、劇薬や薬物療法における種差の問題は大きく、乗り越えがたい困難性が指摘され続けてきた。すなわち薬物療法はヒトに直接薬物を投与しないと真の解明は不可能と言われてきた。これは、現在でもある程度真実である。しかしながら、安全性や倫理面の問題からヒトヘの応用は最小限にとどめて、モデル動物における情報の有効性を確実にする必要がある。今回のヒトゲノムシークエンス解析に、マウスゲノムシークエンスが活用されたように、少なくともゲノム構造は既に多くの種の情報が蓄積されており、これを基盤にした比較ゲノミクスは、新しい発展が認められる。また比較ゲノミクスも構造から機能へのシフトが起こり、ゲノムワイドなモデル動物の機能情報は急速に蓄積されている。その結果今世紀に入り、種差の問題を構造と機能の両面からゲノムスケールで解析され、種差とは何かが解明されると思われる。これらのゲノム情報を基盤に、従来の比較薬理学の限界を打破した、代替性(外挿性)の高い比較薬理ゲノミクスが構築される事が期待されている。 以上二つの点においてゲノムサイエンスの影響を受け、薬理学はゲノムテクノロジーとゲノム情報を基盤に、新しく薬理ゲノミクスとして発展していくと思われる。

2.薬理ゲノミクスの展開

薬理学はもちろん、医学は治療すべき病態(治療の適応症)の存在や決定から総てが始まる。その病態が既存の医薬品で、有効かつ安全に治療可能な場合は、大きな問題はなく比較的容易に薬物治療における用法・用量は従来の薬理学の蓄積により達成される。薬理学で問題となるのは、薬物応答性が不充分か、薬物有害作用が認められる場合である。従来は、その原因として特定の薬物受容体や薬物動態分子の異常を解析するか、個人差として試行錯誤的薬物療法を試みる事が歴史上長く続いた。それでもこの薬物療法の課題は容易には解決されていないのが現状である。しかしながら、薬理ゲノミクスを活用する事により、これら薬物療法最大の課題に、科学的解決の可能性が出てきている。

3.分子薬理学から薬理ゲノミクスヘのパラダイムシフト

ポストゲノムシークエンス時代の生命科学の特徴は、分子生物学の分子還元主義から包括的システム生物学へのパラダイムシフトである。薬物応答性が不充分か、薬物有害作用が認められる場合、既知の薬物受容体や薬物動態分子を解析しても、異常が認められない事がしばしばある。これは、旧来の分子生物学的情報だけでは、この薬理学的課題が克服できない事を示している(3)。そこで、包括的な亭伝子多型や遺伝子発現の解析(4・5)により、解明する事になる。

4.薬理ゲノミクスによる新規薬物応答遺伝子探索

治療薬物モニタリング(TDM: therapeutic drug monitoring)により、薬物動態は正常であるのに充分な薬物応答性が得られない場合、薬物受容体分子に異常が認められたり、認められなかったりする。いずれにしても、新規薬物応答遺伝子(治療遺伝子)を探索する必要がある。なぜなら、これらの病態は薬物治療が成立していない状況であり、現在多くの多因子疾患が該当する(6,7)。 一方、薬物応答性が得られない理由として薬物動態遺伝子異常が関与する場合は、治療薬物モニタリングによりその特性が明らかになる事が多い。この場合は、関与が推定されれる薬物動態遺伝子のシークエンス解析が実施される。しかしながら、それでも不明の場合は、ゲノムワイドな薬理ゲノミクス解析が必要になる(8)。 さらにたとえ薬物応答性があっても、薬物有害反応が認められる事が臨床上しばしば問題になる(9)。この場合も、その原因として薬物動態遺伝子か薬物応答遺伝子か、または両方の異常が解析される。また、薬物応答遺伝子異常により、薬物応答性欠如や薬物有害反応が発現している場合は、さらに困難である。すなわち、異なる薬物応答遺伝子を探索する必要性が出て来る。これらの事が解決されないと、薬物療法が成立しない事になる。そこで、これらの問題を克服するには、薬物動態遺伝子や薬物応答遺伝子の異常に影響を受けない新しい医薬品創製が必要不可欠となる。

5.比較薬理ゲノミクスの新しい展開

既存の医薬品による薬物療法が成立しないか不充分な病態は、現在なお数多く残されている。特に多因子疾患の多くは不充分な治療効果に留まっているか、全く薬物療法が成立してないものが認められる。そこで、ヒトゲノムドラフトシークエンスが報告された今世紀にゲノム情報を基盤にした劇薬への期待が大きい。その過程で、全く新しい発想の治療薬をヒトに直接的に投与することは多くの問題を残している。その結果、モデル動物の活用は今まで以上に重要になり、その薬理学的意義は大きく変化すると思われる。すなわち、従来モデル動物の発現形質を中心に解析してきた比較薬理学は、初めてゲノムシークエンスを基盤にした比較薬理ゲノミクスに展開できる状況が完成しつつある。以前より比較薬理学でモデル動物として活用してきた種も、早晩ゲノムシークエンスが公表されるだではなく、機能ゲノミクス情報も蓄積が開始されている(10)。今後は、この比較ゲノミクス情報をいかに有効に比較薬理ゲノミクスヘ繋げるかが、薬理ゲノミクスの重要な課題となる。

6.遺伝子発現プロファイル解析による治療遺伝子探索

薬理学の最重要課題である薬物応答性の確保と薬物有害反応の回避において従来の薬理学は既知あ薬物応答遺伝子と薬物動態遺伝子に解析対象が限局さる。この範囲内において、薬理学は莫大な蓄積を基礎に臨床的診断が可能てる。しかしながら、既知の遺伝子異常で説明できない課題に対しては、試行錯誤的対応に終止してきた。ヒトゲノムドラフトシークエンスが公表された現在、残された薬理学の課題に対して今後は、薬理ゲノミクスが重要な役割を果た事は疑いの余地が無い。さらに、比較ゲノミクスを基盤にしたモデル動物の替性(外挿性)が、より確かなものとなると、現在なお残された薬理学の課の克服が可能になると思われる。ヒトやモデル動物のゲノムシークエンスに加え、機能ゲノミクスとしては最初に遺伝子発現プロファイル解析がなされてる(11,12)。その理由としては、トランスクリプドームやプロテオームにける発現解析技術(13)の急速な発展がある。 約4万弱とされるヒトゲノム上の総遺伝子から発現する遺伝子群から、これの発現プロファイル解析技術で発現変動遺伝子数は約1%になる。このプロセスは比較的ハイスループット化が可能である(14)。しかしながら、ここから真の薬物応答遺伝子(治療遺伝子)に辿るアルゴリズムは、国際的にもまだ確立されていないのが現状である。我々は、アンチセンス等により発現変動遺伝子の発現レベルを制御した時の病態変化を指標に治療遺伝子を抽出している(15)。その結果、臨床治療薬の新しい標的遺伝子を見い出している(16)。

1)lntemational Humana Genome Sequencing Consortium.lnitisequencing and analysis of the human genome. Nature 409,860(2001)
2)Venter JC, et a1. The sequence of the human genome. Science 29, 1304 (2001)
3〉田中利男ほか: 薬理ゲノム科学と創薬. 21世紀の創薬科学 (辻本豪三、田中利男編) 37,共立出版, 東京 (1998)
4) Childs B & Valle D Genetics. biology and disease. Annu Rev Genomic Hum Genet 1, 1 (2000)
5) Tanaka T. Pharmacogenomics for Therapeutic Target Validation. First Pharmacogenomics and Pharmacogenetics Forum (on June 28-29 1999), 70 (1999)
6)田中利男ほか. ゲノム創薬科学とファルマインプオマテイクス. 蛋白質核酸酵素 45, 805 (2000)
7) Drews J. Drugdiscovery: a historical perspective. Science 287. 1960(2000)
8) The international SNP Map Working Group. A map of humangenome sequence variation containing 1.42 million single nucleotide polymorphisms. Nature 409, 928 (2001)
9) Lazarou J, Pomeranz BH, etal. lncidence of adverse drug reactions in hospitalized patients: a meta-analysis of prospective studies. JAMA 279. 1200 (1998)
10) 田中利男、田丸浩: 臨床薬理ゲノミクス。先端バイオ研究の進めかた (辻本豪三、田中利男編) 110-116、羊土社、東京 (2001)
11) 田中利男: トランスクリプトーム研究の現状と展望. ゲノム機能研究プロトコール (辻本豪三,田中利男 編) 22, 羊土社, 東京 (2000)
12) Nishimura Y. Tanaka T. Calcium-dependent Activation of NFlL3/E4BP4 Gene Expression by Calcineurin/NFAT and CaM kinase Sgnaling J. Biol. Chem. 19921-19928 2001
13) 田中利男. トランスクリプドーム解析と薬理ゲノミクス. 日本薬理学会誌 (Folia Pharmacol, Jpn.) 116, 241 (2000)
14) 西村有平ぼか. 遺伝子発現プロフィール解析とゲノム劇薬科学.実験医学 17, 980 (1999)
15) Suzuki H, Tanaka T. et al. Hemeoxygenase-1 gene induction as an intrinsic regulation against delayed cerebral vasospasm in rats. J Clin Invest 104, 59 (1999)
16) Tanaka T, et al. Pharmacogenomics and therapeutic target validationin cerebral vasospasm. J. Cardiovasc. Pharmacol. 36 (Suppl.2) S1 (2000)

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