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くすりはなぜ効くどう使う

薬物乱用・依存と脳機能障害
-なぜヒトはクスリに溺れるのか-

九州大学大学院薬学研究院薬効解析学分野 山本経之

 医薬品は忌まわしい病気からヒトを救い出してくれます。その医薬品を医療目的から逸脱した用量や目的のもとに使用したり、あるいは医療効果のない薬物を不正使用することを薬物乱用と言います。これら一連の薬物は中枢神経系を興奮、または抑制することにより、多幸感・爽快感・酩酊・不安の除去・知覚の変容(幻覚)などをもたらす働きがあります。1990年の国連総会で、21世紀には薬物乱用のない健全な社会の実現に向け、「国連麻薬乱用撲滅の十年」が決議されました。しかし、21世紀を目前にして国内外ともに薬物乱用に歯止めが掛かってはおらず、依然として悪化の傾向にあります

 今や薬物の乱用とその依存は医学上の問題に止どまらず、現代の社会病理現象と密接に関係した大きな社会問題になっています。ヒトは何故薬物依存に陥るのか。薬物乱用の真の恐ろしさは何か。薬物乱用に基づく諸問題に対峙して、ヒトがヒトらしく生きる事の大切さを共に考えてみましょう。

1)ヤッター!最高!! -あの快感は、脳の何処で感じているのでしょうか?-

 脳には140 個の神経細胞が存在し、その神経細胞に情報を伝える伝令の役目を担うのが神経伝達物質と呼ばれるものです。
  ヒトは常に刺激を得て、“快”を求めています。この快楽志向は体験を通じて学習強化され、高いものへと変遷します。

1954 年、心理学者 J. Olds 博士はラットがレバーを押すと一瞬弱い電流が流れ、脳が刺激される実験を試みました(自己刺激実験)。この実験から脳の中に快楽を司る中枢(脳内報酬系)が存在する事が明らかになり、側坐核や腹側被蓋野と言う脳部位が”幸せを感じる所”と考えられています。驚くべき事には、脳の中に麻薬であるモルヒネと同じ物質(脳内麻薬)が存在し、“快”の神経伝達物質として働いている事も分かっています。

2)薬物依存とその形成過程

 ある種の薬物の摂取により多幸感を感じたり(正の強化効果)、不安や苦痛から解放されたり(負の強化効果)すると、ヒトは再びその薬物を探し求めるようになります(薬物探索行動)。このように薬物がもたらす正の強化効果や負の強化効果を求めて、薬物摂取の要求に打ち克つ事が出来ず(自己抑制の破綻)、結果的には薬物の使用を繰り返すことになります。連用するに従って薬物に対する欲求は益々激しくなり“強迫的な使用”(精神依存)へと拍車がかかってきます。モルヒネでは、さらに“身体依存”に陥ります。この状態で薬物を中断すると、呼吸停止や痙攣を含めた激しい禁断症状が現れます。この不快な禁断症状から回避・離脱する為に、また薬物の摂取を試みるようになり、依存が形成されます。

3)動物に”薬物依存症”がありますか? - 薬物自己投与法を用いて -

 

愛情の深さを数値で表せますか? 無論、no!です。それでは依存の強さは測定できるでしょうか。動物を用いての依存性の強度を客観的にしかも定量的に測定する方法は有ります。薬物自己投与実験法は、その1つです。この実験は、カテーテルを静脈内に留置したサルをレバーが設置してある実験箱に入れ、サルがレバーを押した時、留置カテーテルを介して薬液が微量注入されます。注入された薬液が好ましい効果(強化効果)を示した場合、サルは再びレバーを押して薬液を注入し、これを何度も繰り返すようになります。この時、強化

(薬物)が得られるまでのレバーを押し回数を1 回、2 回、4 回、8 回、16 回、32 回- - -と漸増して何処までレバー押し行動が認められるかを調べてみると(比較累進法)、サルはニコチン(タバコ)の薬液では400 回、覚醒剤では1600 回、コカインでは実に18000 回までレバーを押し行動を続けます。サルのこの壮絶なレバー押し行動そのものが、薬物による依存とは何かを雄弁に物語っています。このように薬物を正の強化とした薬物自己投与行動は、①ヒトでの依存性の予測、②依存性の発現機構の解明および③依存症の治療薬の開発の為に利用されているます。

4)薬物依存に基づく永続的な脳機能障害と次世代への影響

 覚醒剤を数ヶ月に渡って乱用すると、幻視、幻聴、被害妄想などの症状を呈し、覚醒剤精神病を誘発します。これらの症状は治療により一時的には治りますが、症状の再燃は小量の覚醒剤の再使用や心理的ストレスによって容易に起こるようになります。このように覚醒剤の反復使用が脳内に持続的な変化を起し、症状再燃の準備性は長期に渡って保持される様になります。
  同様のことが大麻乱用にも認められます。大麻喫煙していない時でも、幻視・幻聴や妄想などの精神症状が持続してみられます(大麻精神病)。感情の平板化、関心・自発性の減退、思考内容の貧困化などの無動機症候群を呈する人格変容は大麻乱用の特徴です。  一方、シンナーなどの有機溶剤乱用者の頭部CT検査では、大脳皮質の萎縮と脳室の拡大が明らかにされています。この所見は痴呆を中核症状とするアルツハイマー病の解剖所見に類似しています。これはシンナーにより神経を取り巻くリン脂質で構成されているミエリン鞘や神経細胞が破壊されることを意味しています。肝臓・肺などの臓器障害などの重篤さも指摘せねばなりませんが、病理学的変化を伴い著しい永続的な脳機能障害を起こす事こそが、薬物乱用の真の恐ろしさです。

  さらに薬物乱用による健康障害は自分だけに留まらず、次世代までも影響を及ぼします。コカイン依存の母親から生まれた新生児は、易刺激性、呼吸困難、嘔吐、下痢、発熱、筋肉の緊張亢進(ケイレン)と言った禁断症状を表わす事が知られています。出生時に母体の臍帯を経由してコカインの供給が断たれることに基づくもので、そのような症例の3/4は生後48時間以内に認められます。この先、コカイン・ベイビィーがどのような成長を遂げるのか-まだ誰も知る事が出来ません。

5)薬物乱用防止教育と大人の役割

 薬物乱用の撲滅は基本的には供給の遮断と需要の削減に集約される。需要の根絶は最も効果的な戦略です。低年齢層への薬物乱用汚染が拡大されつつある傾向を念頭に、薬物乱用を許さない社会的環境を作る為には、青少年に対する薬物乱用に関する学校教育は最も重要です。しかし、むしろ我々大人自身の薬物乱用に対する無知と危機意識の薄さにこそ問題があり、そのことが今日の薬物乱用に拍車を掛けている面も否定できません。

 明日の夢・未来にある幸せを創造する脳。心を司る脳、心を操る脳、そしてヒトのヒトたる所以を創る脳。ヒトは誰も幸せ・快楽を求めています。汗水流す努力もなく、薬物による短絡的な快楽追求。この掛け替えのない脳に一瞬の快楽と引き換えに永続的な傷が残るとしたら、もはや考える余地は何もありません。薬物乱用による脳の障害の悲惨さを考えれば、退学・懲戒免職・逮捕といった社会的制裁や法律的な処罰がいかにも生温いものであるか容易に理解できます。

 薬物乱用の現状とそれにまつわる諸問題を、元気な脳で共に考えてみましょう。

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