本原稿は、日本薬理学雑誌に掲載された記事を転載したものです。
コンディショナルノックアウトマウスを用いた 学習・記憶調節機構の解明 |
近年,分子生物学的技術の飛躍的な進歩に伴い多くのトランスジェニックマウスが開発されている.特に最近ではCre‐loxPシステムやtetracyclineなどによる遺伝子発現阻害・誘導システムを用いたコンディショナルノックアウトマウスが作製されるようになり,標的遺伝子の発現を組織特異的および時期特異的に調節することが可能となった.ここでは,学習・記憶形成過程におけるN‐methyl‐D‐aspartate(NMDA)受容体の機能調節因子としての役割について検討した一連の論文について紹介する. 1999年,米国Princeton大学のTsien助教授らのグループによってDoogieと名付けられたトランスジェニックマウスが作製された(Nature 401, 63‐69, 1999).このマウスは,前脳に豊富に発現しているα‐CaM‐kinase IIプロモータ領域の下流にNMDA受容体のサブユニットの1つであるNR2B遺伝子を配置することにより特異的に前脳(特に皮質と海馬)に過剰発現させたマウスである.このマウスは,正常に生育し,痙攣など行動異常や著明な形態学的異常は認められなかった.電気生理学的な実験において,このマウスの海馬CA1領域でのシナプス伝達は,野生型マウスより促進されていた[長期増強(LTP)の促進]. また,行動学的な学習・記憶試験において,このマウスの水迷路試験における空間記憶能は,野生型マウスに比べ増強していた.Fear‐conditioning試験において記憶の保持能力を調べたところ野生型マウスと比べてこのマウスの保持能力は増強されていた.このように,遺伝子操作によって脳の高次機能までも制御可能であることを示した画期的な報告として注目されている. 翌年,彼らのグループは,第3世代のノックアウト技術としてCre‐loxPシステムとdoxycycline(tetracyclineの誘導体で血液脳関門を通過しやすい物質)による遺伝子発現阻害システムの両方を組み合わせた方法を用いて海馬CA1領域のNMDA受容体コンディショナルノックアウトマウスを作製し,学習・記憶形成および保持過程におけるNMDA受容体の役割について報告した(Science 290, 1170‐1174, 2000). この方法では,飲料水にdoxycyclineを混合し,このマウスに飲水させることにより,あらかじめCre/loxPシステムに組み込まれているtetracycline‐controlled transactivator(tTA)にdeoxycyclineが特異的に作用し,NR1のtransgeneの発現をストップさせ,NR1サブユニットの発現を抑制した(inducible, reversible, and CA1‐specific NR1 knockout mice: iCA1‐KO mice).このiCA1‐KO miceにdoxycyclineを飲水させない場合は,野生型マウスと同様に海馬におけるLTPを誘発し,fear‐conditioning試験および水迷路試験において学習を獲得し,記憶の保持も良好であった. しかし,iCA1‐KO miceにdoxycyclineを飲水させると,LTPは認められず,空間学習や記憶の保持が障害された.従って,iCA1‐KO miceを用いることによって,NR1の発現を時期特異的に調節できること,記憶の獲得およびその保持に海馬CA1領域のNR1サブユニットが重要な働きを果たしていることを明らかにした. 次に彼らは,このような学習・記憶が障害されている海馬CA1領域のNR1サブユニット欠損マウス(CA1‐KO mice)を用いて飼育環境の影響について検討した(Nature Neuroscience 3, 238‐244, 2000).CA1‐KO mice(1.5~2カ月齢)を1日3時間,遊技器具(色々な玩具,回転カゴ,小さな家など)がある環境で2カ月間訓練し,訓練しなかったマウスと比較した. その結果,このCA1‐KO miceは学習・記憶障害が認められなくなり,解剖学的にも電気生理学的にも欠損していた生理機能が見事に回復していた.これらの実験から,遺伝子操作による記憶障害は必ずしも不可逆的でなく豊かな環境によって回復されることを示した点で,非常に興味深い結果であると思われる. 以上のように,コンディショナルノックアウトマウスの開発により,組織特異的・時期特異的遺伝子破壊が可能となった.従来のトランスジェニックマウスでは発達の過程において学習・記憶の調節機構が他の神経系やシグナル伝達系によって代償的に正常化されている可能性があり,標的遺伝子が本質的に記憶・学習の形成や保持の機構に重要な役割を果たしているかどうかは明確でなかった.今後,この手法を用いてさらに多くの遺伝子変異マウスが開発されれば,疾患の発症機序の解明に多いに期待できるものと思われる. |
名古屋大・医・病院薬剤 野田幸裕,間宮隆吉,鍋島俊隆
e‐mail: y‐noda@med.nagoya‐u.ac.jp |
キーワード:NMDA受容体,コンディショナルノックアウトマウス, 学習・記憶 |