江橋節郎賞
第3回江橋節郎賞を受賞して
井上 和秀
九州大学大学院・薬学研究院・薬理学分野
私はこれまで神経伝達におけるアデノシン3リン酸(ATP)受容体の生理機能を神経薬理学的に研究してきたが,最近は痛み伝達におけるグリア細胞の役割とATP受容体の機能を特に興味深く思え,その研究に集中している.それらの業績が評価され,今回極めて光栄な本賞をいただいた.江橋節郎先生は私が学生の頃には既に我が国の碩学であり,雲の上の先生であった.留学したロンドン単科大学でも著名人であり,FRSのメンバーでもあられた.従って,そのような先生のお名前を冠した賞は私には遙か遠い存在であり,選考審査の俎上に載ることさえ憚られたが,強く推してくださる先生の説得をついに受け入れた.その理由は,推薦してくださるレベルに達したとすれば,これはひとえに,これまで私を信じて研究に協力してくださった若い皆さん,そしてその研究を様々な側面から支えてくださった多くの方々のお陰であることに,あらためて気づかされたからである.その方々の真摯な研究への努力は賞賛されるに値することは事実であり,いただける可能性があるならば,みんなを代表していただけばいいと考えた.賞をいただけて,まずその方々へ深甚の感謝を表したい.さて,アデノシン3リン酸は細胞内においてはリン酸基供与体として細胞の生命活動には必須の分子であることが確立されていたことから,約40年ほど前にバーンシュトック先生により提唱された「細胞外において情報伝達をする」というアイデアは常軌を逸したものと受け止められた.長い苦節の時代を乗り越えて,1993年のP2Y1クローニング成功を契機として,一気にATP受容体研究がサイエンスとして認知されてきたのである.ATP受容体は,ATPをアゴニストとするイオンチャネル型受容体(P2X)ファミリーと,ATP以外にもUTPなどのヌクレオチドをアゴニストとするGタンパク質共役型受容体(P2Y)ファミリーに大別され,それぞれ7種類(P2X1~P2X7)および8種類(P2Y1,P2Y2,P2Y4,P2Y6,P2Y11~P2Y14)がこれまでに報告されている.ATP受容体は,生体のどの部位にも何らかのサブタイプが発現しており,このような「発現の瀰漫性」は他の受容体では見られない特徴である.
国立衛生試験所(現・国立医薬品食品衛生研究所)薬理部にて私がATP受容体研究を始めたのは米国留学から帰国した翌年1988年からであった.米国から持ち帰ったラット褐色細胞腫由来PC12細胞を用いて,カテコールアミン(CA)放出メカニズムを研究していた私は,偶然に,ATPをPC12細胞にふりかけてみた.すると,これまで最大の反応を引き起こしていたニコチンの約6倍も大きなCA放出が引き起こされた.細胞外液の3HラベルしたCAをシンチレーションカウンターで測定していたが,その数値が異常に高かったことに驚き,細胞が破裂したのではないかとさえ思ったものである.中澤憲一博士の協力を得て,ATP刺激により同細胞から巨大な内向き電流が惹起されること,その反応には再現性があることもわかり,細胞は生きていて,生理的な反応である希望がわいてきた.そうして,ここから本格的な研究が極めて地味にスタートしたのである.その後,1994年には,故植木昭和門下から小泉修一博士(現・山梨大学医学部薬理学教授)がグループに加わり,カルシウムイメージングの精密な技術でATP研究を発展させてくれた.また,このころからアストロサイトやミクログリアにも研究対象が広がっていった(国立精神神経センター高坂新一現所長のガイダンスによる).痛み研究は,1995年2つのグループがNatureに後根神経節(DRG)ニューロンに限局して発現するP2X3を見出したときからである.米国留学から戻った上野伸哉博士(現・弘前大学医学部教授)が私のラボに参加し,DRGニューロンを使ってP2X2,P2X3に関する電気生理の研究を開始した.そして,1998年,津田誠博士が鈴木勉教授の下から私のグループに入り,痛みの行動薬理学的研究が本格的に開始された.こうして,1999年に発見された神経障害性疼痛発症モデルの脊髄ミクログリアの異常な活性化とP2X4過剰発現のデータは,様々な状況がうまく重なり,また様々なトラブルを来月には臨月で出産という重本由香里氏,また来月には卒業してしまう溝腰朗人君らのがんばりでなんとか乗り越え,2003年にNature誌上に発表することができた.その後,2005年,2007年のNature論文はいずれも大変興味深く,それぞれの研究エピソードは語れば長くなる.2005年より九州大学薬学研究院に移り研究を進めてきた.字数が少なくて多くのお世話になった方々,すばらしい成果を上げた若き研究協力者・学生たちを紹介できなくて残念であるが,最後に,私たちの研究成果を厳しく評価してくださった選考委員会の先生方のサイエンティストとしての実にフェアなご姿勢に敬意と感謝の意を表して,締めくくりたい.
(Kazuhide Inoue)