江橋節郎賞
第9回江橋節郎賞を受賞して
森 泰生
京都大学大学院 地球環境学堂・工学研究科
この度は,江橋節郎賞受賞の栄誉を賜り真に光栄に存じます.私のようにCa2+チャネル分野に身を置き,また,江橋節郎先生の人間的魅力に触れる機会を得た者にとっては,本賞の受賞はこの上のない名誉なことであり感激に堪えません.
生体膜越えの無機イオンの移動は生命現象の最重要基盤の一つです.特に,Ca2+は唯一の無機イオンセカンドメッセンジャーであり,Ca2+透過チャネルが担う細胞へのCa2+流入は薬理・生理学の中心課題です.1980年代は,個体・組織・器官・細胞を対象に発展を遂げた薬理・生理学が生化学・分子生物学と融合し,Ca2+チャネルのみならず多くのイオンチャネルや受容体の分子実体の同定と精密な機能解析が達成された時代です.選択的に作用する薬剤がこの過程で,イオンチャネル・受容体の機能解析と生化学的精製に,決定的な役割を果たしたことは記述するまでもありません.私が薫陶を受けた沼正作研究室は,当時,まさに薬理・生理学と生化学・分子生物学との融合分野の中心を担っていました.ところが,1990年代に入ると,それまでとは逆のベクトルの研究が顕在化してくることになります.つまり,イオンチャネル・受容体において見出したユニークな分子機能特性に基づいて,細胞応答や組織・器官機能を発見,再評価し,新たな個体レベルの恒常性維持機構を明らかにする研究が勃興してきたのです.そして,このベクトルの研究はゲノム時代の到来とともにさらに重みを増しています.
そういった時代背景のもとで,私は電位依存性Ca2+チャネルのポア形成α1サブユニット(CaVタンパク質)に焦点を当てた研究を開始し,旧来のL,N,T型分類から逸脱した性質を示すCa2+チャネルが,CaV2.1タンパク質により形成されることを示しました.後にP/Q型と呼称されるようになったこのCa2+チャネルは,中枢神経系の神経伝達物質放出における中心的役割を担い,CaV2.1遺伝子は脊髄小脳変性症6型,家族性片頭痛等の家族性神経疾患の原因遺伝子であることが明らかにされています.即ち,CaV2.1が軸となって,薬理学・毒物学,神経生理学,疾病遺伝学など異分野に散逸していた知見が,統一的に理解可能になったと言えます.一方,私はCa2+チャネル副サブユニットの一つであるβサブユニットが,膜表面への発現や局在化を制御することを示しました.前シナプスの局所構造アクティブゾーンにおいて,このβサブユニットはシナプス小胞をCa2+チャネルに物理的に連結し,電気的活動と神経伝達物質放出とを連関させるという重要な役割も担います.
ユニークな新規機能を示すイオンチャネルという点においては,transient receptor potential(TRP)タンパク質群が形成するカチオンチャネルが突出しています.私たちは,細胞内酸化還元状態,或いは活性酸素種・窒素種を感知し開口するTRPチャネルなど,各々がユニークなセンシング能力を示すTRP群を見出しました.この研究は,各TRPチャネルが形成するチャネルソーム(channelsome)と,それらが制御する新たなCa2+シグナル経路と生理的意義の解明に発展しています.マクロファージにおいては,過酸化水素によりNAD+/ADPリボースを介して活性化開口したTRPM2がCa2+を流入させ,Ca2+依存的なMAPキナーゼ/NF-κBの活性化によりケモカイン産生と好中球浸潤を誘導します.最近では,迷走神経のTRPA1チャネルが環境中の分子状酸素レベルを感知し,呼吸機能の酸素適応を調節する機構を見出すことができました.これは,迷走神経の酸素受容性の再発見であり,これまでの頸動脈小体を中心的な(或いは唯一無二の)酸素受容器と見なす生体適応のドグマに一石を投じる恒常性機構に結びつきます.
今後は,新たに見出したユニークな分子機能特性に基づいた,新たな細胞応答,組織・器官機能,そして生体恒常性維持機構を明らかにするベクトルの研究を強力に推進していこうと考えています.この点において,TRPチャネル分野は研究の種の宝庫です.例えば,TRPA1を含むレドックス活性種感受性TRPチャネルは体内に遍在しており,それらがどのように体内の酸素レベルの感知と調節に寄与するかを調べることは,新たな酸素受容器官の発見のみならず,生体内酸素環境の設定機構とその意義の研究に発展できるでしょう.また,温度センサーTRPチャネル群は,体表面の感覚神経以外の体深部にも発現しており,それらがどのように生体内の温度の感知と熱産生を調節するかを知ることは,新たな温度感知器官,生体内エネルギー代謝の制御機構とその意義等の研究につながります.これら新たな視点からのTRPサブタイプ選択的な作用化合物の開発は,薬理学・生理学・生化学における強力な解析のツールを提供し,究極的には医薬品開発におけるリード化合物につながる可能性が期待できます.
私の研究は,先人の優れた研究の蓄積の上に成り立つものです.特に,江橋先生の拓かれたイオンシグナル研究の帰結として,自然に導かれたと言っても過言ではありません.また,得られた成果は指導いただいた先生方の薫陶の賜物であり,共に苦労した共同研究者なくしては決して達成しえなかったものです.皆様には心からの御礼を申し上げたいと思います.
(Yasuo Mori)