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「胃潰瘍は何故発生するのか?その治療薬は?」
-貝殻からポンプ阻害薬まで-

京都薬科大学応用薬理学教室 教授 岡部進

夏目漱石、永井荷風、ジェームス・ジョイスなどの作家、バレンチノなどの俳優などは潰瘍が原因で死去したり、また苦しんでいる。漱石などは、「胃の調子さえ良くなれば今一度人生をやり直したい」とまで云っている。 今回は「胃潰瘍の発生の理由と治療薬の発展」という主題の下にお話をさせて頂く。


★潰瘍の歴史

まず、胃潰瘍という病気は歴史上いつごろから知られていたか?筆者の知る限りでは、アレキサンダー大王の逸話が一番古いようだ。この大王は若くして世界制覇という野望を持ち、かなり獲猛な戦いをしたようで、攻撃されたギリシャの将兵はストレスのあまり、血を吐いて死ぬ者多数と伝えられている。また第二次大戦では、ドイツ軍の夜間爆撃でロンドン市民は恐慌状態になり、潰瘍の患者が急増したとある。近くは、阪神大震災でも潰瘍の患者が増加したと報道されていた。アメリカの競走馬サラブレッドも発走前は、極度のストレス状態となり、胃潰瘍が発生する例があり、高価な馬だけに馬主にとっては死活の問題になるようだ。つまり、我々人類も鳥類も、精神活動が開始された時代から胃に潰瘍が発生することが知られていた。

★潰瘍は何故できるのか?

「酸無きところに、潰瘍なし」の言葉通り、潰瘍の主成因として胃液中の塩酸やペプシンが関与していることは周知である。夜間分泌を除けば、普段は胃液は分泌されていないが、食物摂取により胃液が分泌される。美味な食物を見ただけでも、また想像しただけでも胃液は分泌される。ロシアの科学者パブロフにより、条件反射として報告された現象である。つまり、脳と胃は密接な関係にあり、ストレス潰瘍の成因も納得できる。この胃液の作用は強力で、肉類などの消化などは1-2時間で完了するが、著者らの研究室では、ステンレスも半年以上胃内に放置しておくと消化?される事を観察している。つまり、溶解される。このように強酸が存在するにも拘わらず人の胃はなぜ自らを消化しないのか?、という疑問が長年問われていた。また薬物、特にアスピリンなどの抗炎症薬の服用により、直接的、また間接的に胃出血、潰瘍が高率に発生する。高齢化にともない、多くのヒトは何らかの炎症性疾患を有し、これらの薬物の長期服用を考慮すると、この副作用の除去が現在の消化器病学の一つの焦点となっている。

★粘膜が消化されない理由

最近になって、胃粘膜が恒常性を保つ理由が解明され始めてきた。現在、胃粘膜の保護機構として以下のような事が解明されている。(1) 胃の上皮細胞は粘液および重炭酸イオンを分泌しているために分泌された胃酸は粘液中で中和される。事実、胃の内腔側ではpHは1~2であるが、胃の上皮細胞に接する処ではpHは7.O近くであり、胃液の消化作用は発現しないと考えられる。(2)胃粘膜の表面には燐脂質層があり、塩酸(水溶液)は粘膜表面から弾かれ、上皮細胞には接触し難いことになる。(3)胃粘膜は、ガン、血液細胞などと同様に急速に細胞分裂が進む組織であり、上皮細胞に少々の傷が出来ても数日内に胃の内腔測に脱落、剥離される。つまり急速な細胞回転もまた胃粘膜の防御機構において重要な役割を果たしている。さらに、(4)胃粘膜血流も大事な防御機構で、胃粘膜が薬物などで傷害を受けると、胃に分泌された胃酸が粘膜内に逆拡散する。しかし、粘膜部に血流が豊富に流れていると拡散した酸が血流にて洗い流され、潰瘍にまで発展しない。また(5)唐辛子の主成分であるカプサイシンに感受性をもつ神経も胃粘膜に防御的に機能していることも判明している。(6)胃粘膜が予め弱い刺激物に曝された後、強い刺激を与えても、胃粘膜は傷害を受けないことが判明している。たとえば、50~100%アルコールを投与すると胃粘膜には重症な傷害が発生するが、予め20%アルコールを投与後、次に100%アルコールを投与しても、胃粘膜傷害は発生しない。この現象は、適応性細胞保護効果という。すなわち、我々の胃粘膜は普段の食事または刺激性のある物質の摂取により鍛えられており、少々の刺激物ぐらいでは胃粘膜の恒常性は破壊されないようだ。この保護効果には、一部粘膜内のプロスタグランジンや一酸化窒素(NO)などが関与している事が証明されている。

★ビロリ菌の発見

胃は塩酸酸性下にあるので、微生物の存在は不可と長年信じられたきた。しかるに、オーストラリアのパースの若い医師マーシャルは、胃に細菌(後にヘリコバクタービロリ菌と命名)が存在し、疫学的研究から胃炎、潰瘍、ガンなどの疾患の病原菌であることを示唆した。その後の膨大な研究から、潰瘍は胃内に棲息する細菌による感染症であることが広く認められてきている。現在、胃炎や潰瘍の治療および潰瘍の再燃・再発の予防には抗生物質が投与されている。我が国でも、最近になって潰瘍の治療に抗生物質および酸ポンプ阻害薬の併用処方が認められた。

★潰瘍の治療薬

古代ギリシャ時代には、ストレス潰瘍を避けるためには旅行に出るとか、海を見るなどが推奨されていたようだ。薬物としては、専ら貝殻を粉末にして服用していたと記載されている。貝殻、つまり炭酸カルシウムで、制酸薬で胃の痛みを押さえていたのであろう。また各種の生薬も使用されていたと成書にある。 中世になると、パラケルススは潰瘍の治療に甘こう(塩化水銀)を使用していたとある。今世紀になると、胃酸分泌を抑制するために、最初は迷走神経切除術がなされ、次ぎに制酸薬、抗コリン薬などが使用されたが、胃酸分泌は十分には抑制できず、また口渇、頻脈などの副作用が発現した。1972年に、英国のブラック博士が新しい抗分泌薬であるヒスタミンH2受容体拮抗薬ブリマミドを開発した。現在H2拮抗薬としてシメチジン、ラニチジン、ファモチジン、ニザチジンなどが世界中で使用されている。1980年代になると、スウェーデンで酸ポンプ阻害薬オメプラゾールが開発され、我が国でもランソプラソール、ラペプラソールなどが開発され、潰瘍の治療に卓効を発揮している。 ピロリ菌の除菌療法も確立され、潰瘍の治療ならびに再発予防に威力を発揮している。この様に、H2拮抗薬やポンプ阻害薬などの画期的な薬物の開発に伴い、潰瘍の治療はある意味では完成に近づいているように感じられる。現在ならば、漱石を胃潰瘍くらいの病で失うことは無い筈であり、改めて漱石の死が惜しまれる。

★壁細胞の謎

一体何故胃から塩酸が分泌されるであろうか?つまり、何故胃に壁細胞という塩酸分泌細胞が発生したのであろうか?壁細胞は我々人体の生存に必然的に発生したのか、または原始生物から人への進化の途中に偶然に発生したのであろうか。壁細胞は魚類からその存在が確認されている。この壁細胞の起源を追うことも、我々ヒトの体の成り立ちを考える上で重要な研究アーマとなるであろう。

★おわりに

我々の体に胃があり、塩酸が分泌され、また日常のストレスに曝される限り、胃潰瘍、十二指腸潰瘍が発生するのは避けがたいようだ。漱石の句ではないが、<ひびの入りたる胃のふくろ>にならないように出来る限り平静な心でストレスを避け、心身ともに豊かな生活を送りたいものである。

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